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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

UAE時代その2


私がアラブ首長国連邦(ドバイ)で仕事をした時の日記(2)です

その1では主に仕事を中心に通暁したが、今回は、週末などのドバイ(UAE)の生活について書きたいと思う。
シャルジャのNOVA PARK HOTELに着き、数日間TSEに通った間は、右も左も分からない状態だった。UAEが七つの首長国の連邦であることや自分が今居るシャルジャとはどんなところか、これから先どういう事になるかを含めて白紙だった。
NOVAホテルの前は広い空き地になっていた、
キング・ファイサルロードを挟んだ向こう側には、マーケットのSpinneysが見える。
バー・ドバイに移ったときによく利用させてもらった日本食品が置いてあるマーケットだ。
さらにその向こう(実際には西方向)はなにやら海のようだ。地図を見て分かったことだが、そこはラグーン(湾)になっていた。

休みには何もすることがないので、周りを散歩してみる。入り江の片側沿いにペルシャ湾の方に向かってとことこと歩いて行った。青色の外観をしたシャルジャのセントラルマーケットを左手に見て広い道路に誘われて歩くと、左手に褐色の大きなモスクが見えた。これは、サウジアラビアの先代の王キング・ファイサルから寄贈されたキング・ファイサルモスクだった。大きさも大きいが、荘厳そうで、遠目から見たらスタジアムのような威容を誇っていた。

郵便局を回って再び海岸方面に向かう。そこら当たりはどうやらシャルジャの繁華街のようであった。といっても、田舎町という感は否めない。タクシーステーションや、バスステーションなど、殆ど高層の建物はない中、フルーツを専門に売るフルーツマーケットが見えた。
その日は休みなのか、時間が早かったからか、殆どの店は、品物の上に布をかぶせていた。
その内の一軒の親父から声を掛けられたが、意味も分からないまま、歩いているだけだと英語で返すのが精一杯だった。
フルーツマーケットに並んで、海岸沿いにフィッシュマーケットが長屋のように並んでいた。
既に朝の商いが終わったのか、床を洗う水でそこら中が水浸しになっていた。

その当たりの公園の岡状になっている高台に上ってみたが、これといって珍しいところもなく、暫く周りの景色を眺めながらホテルに帰ることにした。
帰りは、海岸線に沿って、ブルースークと呼ばれる、先ほどのセントラルマーケットを左に見ながら歩いた。このマーケットは外観が非常にしゃれていて、入ってみたかったけれど、時間が中途半端なのか、まだ閉まっていた。

シャルジャは、元々首長国の中では最初に石油が出たところだと聞いていたが、やがて、ドバイ、そしてアブダビにその地位を奪われて、今は小さな漁村町のような風情であり、シャルジャ内の工業地区に通う人たちやドバイに通う人たちのベッドタウン化していると言うことだった。

元々、ペルシャ湾のこの沿岸は、ラス・アル・カイマからドバイに至るまで、真珠が良く取れたところらしく、博物館に行けば必ず、真珠取り時代の風情を撮った写真などが飾られている。
恥ずかしくも、私は、真珠は御木本幸吉の専売であるかと今まで思っていたのだが・・・。

シャルジャでの思い出は、ホテルからTSEに渋滞に巻き込まれながら通ったことと、わたしがKWIKに移動した後、TSEで会議をするとき、早朝に入り江の辺りの公園でカモメと一緒に朝の体操をしたことが上げられる。

UAEの人口は外務省によると449万人(2007年)とあり、また別資料によると2008年には475万人程度と推定されている。年6%前後の増加率である。
アブダビ、ドバイ、シャルジャ以外は差ほど増加していないと言うことらしいが、(又実感でもその通りである)中でもドバイはすさまじい勢いで人口が増加している感じである。

従ってこれらかシャルジャの人口を高めに想定しても、70万人強と程度であり、UAE全体に占める人口は約15%程度と言うところだろうか?
従って、内陸部の工業地帯を除いては、単なる漁村が発達したと考えても差ほど違いはない。
しかし、いずれにせよシャルジャはUAEで3番目に大きな首長国ということらしい。

意地悪く想像すれば、UAE全体は、サウジアラビアと同じように、石油が出なければ単なる暑くて不快な漁業に頼る小さな国でしかなかったであろう。
如何に石油の力が大きいかはこの地に立ってみてはじめて実感できることかも知れない。

しかし人口の約20%しか自国民(いわゆるUAE人)が居なく、後は東南アジアや、特にインドからの出稼ぎの人たちが多い。
私のドライバー(以後ラスールと呼ぶ)やNTaさん達のドライバー(略称CK)もやはりインド人であった。不思議に、ここでは余りフィリピン人の姿は見えなかった。
いずれにせよ、旧宗主国が英語を話す国であった故の有利さはあるようであった。さらに地理的にもインドとアラビア半島は近い関係にある。

さて、KWIKへの通勤を考えて、私はバー・ドバイに住居を移すことになった。
ドバイの市内は、前にも述べたが、シャルジャに近い旧市街であるデイラ地区と、その南で、ドバイ・クリークを挟んで、後に発達したバー・ドバイ地区がある。
ブルジュ・アル・アラブとかジュメーラビーチホテル、マディナ・ジュメーラ等の超高級ホテルがある世界のリゾートはバー・ドバイの更に南側に一角を占めている。(ジュメーラと呼ぶ)

私は、そこまで高級な場所にはとても住める訳はないので、市内の比較的便利な場所に家具、まかない什器付きホテル風なコンドミニアムであるNawara Furnished Apartmentを借りることになった。
このコンドミニアムはバー・ドバイの中の、アル・ラファという地区にあり海岸とドバイ・クリークに近い場所に位置していた。

クリークを挟んだ旧市街地のデイラ地区に渡るにはクリークの河口付近のシンダガ・トンネル、中間のマクトン・ブリッジ、内陸部のガーホールドブリッジの3カ所しかなかったが、私が帰国する少し前くらいから、ビジネス・ベイ・ブリッジが更に内陸に出来たようで、渋滞するシェイク・サイードロードを渡す大きな広告塔には、「ビジネス・ベイ・ブリッジが空いている」という文字が毎日のように掲げられていた。

車では、その4カ所しか、デイラ地区側(シャルジャ側)への道はない。
最も更に内陸のクリークを完全に迂回したエミレーツ・ロードを取れば当然ながらいけるわけだが、何しろものすごく遠回りになる。

人が渡るためにはクリークを渡す渡し船(アブラという)が引きも切らず往復している。
クリークの両岸には、所定の停留所があり、その間を何隻ものアブラが行き交って、ビジネスマンや、町の人たち、それに観光客を運んでいる。

アブラは木製の船で、定員は約20人くらいである。バー・ドバイ側には昔の名残を残すテキスタイルの問屋街に近く一つの停留所がある。向かいの、デイラ側の近い側には、世界中の観光客を集める、ゴールドスークに近い場所に停留所が設けられている。こちらの停留所近くにもオールドスークがあり、香辛料などを所狭しと並べて売っている。

昼間のアブラも良いが、日が暮れて、周りが点灯し、近くのモスクに青い明かりが点く頃には、多少とも暑さが和らぎ、なかなか風情がある。

私の連れ合いは、バードバイのコンドミニアムに居を定めてから約1週間の予定で私の居室に旅行がてら来てくれた。彼女はこのアブラに乗るのが好きで、日に1-2度往復したり、何かと言っては、アブラが通るドバイクリークに出かけた。
アブラと呼ばれる渡しは、昔は、片道1/2ディルハムであったが、今は1ディルハム(約30円)に値上がりしている。
定員が満杯になると船頭が(といってもモーター船)船を出し、向こう岸に着くまでにそつなく乗客から1ディルハムを取るというスタイルだ。

連れ合いと私が一番河口に近い停留所の更に河口側のシェイク・サイードの旧宅や、旧の家並みの遺産を展示する場所を見て回った後、川沿いに歩いていると、個人観光客相手のアブラが声を掛けてくる。交渉して、マクトンブリッジ近くのダウ(旧の木製大型運搬船)が停泊している付近までを、80ディルハムで往復する遊覧の交渉をし、川風と両岸の建物を楽しんだ。
岸に沿って、市庁舎やインターコンチやシェラトンの一流ホテル、全面金張りのアラビア銀行、更に威容を誇るロレックスのツィンタワーが並んでいた。

また、ここでは、ナイトクルーズの間に夕食を取るという趣向もあり、暑い夜を結構皆楽しんでいるようである。

デイラ地区には昔ながらの五つ星クラスのホテルはある(特にクリーク沿い)ものの、最近ではジュメーラ地区にすっかりお株を奪われた模様である。

このデイラ地区の内陸側(南東)には大きな、ドバイ国際空港がある。おそらく3-4km四方は優に占拠している。
香港のチェック・ラップ・コック空港もでかいと思ったが、ドバイ国際空港も、端から端まではなかなか歩くのが大変である。中東のハブ空港としての地位を得ているのもさもありなんである。
ここの空発着案内のアラビア語放送は、数字や行き先くらいしか意味が分からないが最後のフレーズは耳に心地よいものを感じて好きだった。
「ハムサ(5)、セッタ(6)・・・」など、便名をアナウンスする声に異国情緒を感じた。
バーレーン空港も24時間空港であったが、ここドバイ国際空港も24時間空港で、真夜中の2時、3時でも人通りは多く、明るいため、時間の感覚がなくなってしまうほどだ。

ドバイは、現在の石油景気が終わるのを見越して、世界のレジャーランドを目論んだり、世界の商取引をも引き入れようとするすさまじいエネルギーを感じる。
ここに来る1年前にサウジのジェッダから一度出張してドバイを訪れたことがあるが、その時幸運にもジュメーラの高級ホテルに泊まることが出来たが、ホテルの海側の逆には、林立するホテル、高層ビルが、建造途中で、町そのものの景観はまだ落ち着いては居なかった。

この度、訪れたときには、前年建設中のホテルはできあがっているものの、更なる建設ラッシュ、アブダビと結ぶ高速道路(シェイク・サイードロード)の拡幅、さらには日本企業も参画している高架の軽量鉄道などが、目白押しになっていた。
世界の重機(クレーン)の約20%は現在ドバイに集結していると言われているが、シェイク・サイードロードを通り通勤している車内から見る限りは、どのビルも建設中で、建造途上のビルのトップには必ずと言っていいほど、タワークレーン数機が設置されていた。

今まだ建設中であるが、できあがれば世界最高となるブルジュ・アル・ドバイの高層ビルも、天を突くように殆どその全貌を表し始めている。
最高の建造物は、その昔、キングコングが上った、アメリカのエンパイヤービルディングであったのが、今や、マレーシア、台湾等々、続々と高層化が続いている。
テレビ番組で、ざこばが、「もういい加減にせんと怖いわ」といっていたが、少し以前のバブルの頃は、日本でも大手といわれるゼネコンは競って天を突く(頭を雲の上に出す)高層ビルを計画していたことを思い出す。地震国日本でさえ装である、ドバイはサウジ同様地震がないので、こういったことが実現できるのだろう。
ただ、地球内部の石油を、ちゅうちゅう吸い続けて、中を放っておくと(そうでないことを祈るが)何時かどさっと地盤が沈下するのではないか、と思うのは自分だけだろうか?

砂漠地帯に地震がないというのは地質学的に明らかにされているのだろうか?

デイラ地区のドバイ国際空港はとにかく巨大な空港がある。その1でも述べたが、世界でも有数の空港を目指している。
UAEにはシャルジャにも国際空港がある。ドバイ国際空港との距離は、たった15kmほどしか離れておらず、世界でも最も近接した国際空港としても知られている。
空港についての話のついでだが、ドバイにはまたドバイ・ワールド・セントラル国際空港を私が通っていたKWIKのあるジュベール・アリに建設中である。ドバイ国際空港の補助空港との位置づけらしいが、その規模は数倍も広い敷地を有する計画のようだ。

何しろ一ヶ月もすると地図が変わるし、地元のドライバーでも、工事により迂回路を通らされると、どういって良いのか分からないというのが実情のようだ。
私が去ってからもう1年もたっているのでおそらく相当道路は変わっているだろうと思われる。
当初の地図には、多くの場所が(U/C:Under construction=工事中)と記されていた。
KWIKに通う途上で遠くを見ると、ブルドーザーが砂塵を巻き上げているのが無数に見えた。
あれはきっと、ドバイ・ワールド・セントラル国際空港の用地であろうと想像できた。
そのほかにも巨大なゴルフ場(何でも18ホールが5つは取れるという代物らしい)やスポーツランド(これもそのゴルフ場に近く、面積はゴルフ場よりも大きいと書かれている)、更に広大な占有地のドバイランド、新都市など様々なものが、砂漠の中に作られていく。
面積的にも相当なもので、現在のドバイ市街が全く2つ出来るような感じである。

聞くところによると、現在のドバイ・クリークは内陸部の湿地帯で終わっているが、これを人工的に運河で繋ぎ、アラビア湾に再び導く循環型にしようとの構想もあると聞く。
海に目を転じれば、ドバイだけでも3つの巨大埋め立て工事が進行中である。
私は、朝6:00前にアパートを出発することにしていた。ドライバーのラスールも異論はないということで、まだ暗いうちからアパートに迎えに来てくれる。
通常はシェイク・サイードロードを通るのが普通のやり方だが、私はあえてジュメーラロードを通り、ブルジュ・アル・アラブとジュメーラビーチホテルを間近に見る海岸で、ラジオ体操やら、ストレッチをして出かけるのを日課としていた。
ジュメーラ海岸からはザ・ワールドと呼ばれる世界地図を模した埋め立て用地あたりに、ドレッジャーが埋め立てよう土砂を噴出しているのが肉眼でも見える。
工事中で、なかなか先端の方までは行かれなかったが、ザ・パーム・ジュメーラというこれは椰子の木を投影した形のリゾート地(高級住宅地を含む)が埋め立て、建物が一部建てられかけていた。全く奇抜なことを考えるものだ。
計画書では、デイラ地区の沖合にも同様に椰子の実型の埋め立て地ザ・パーム・デイラが計画されている。

現在高架軽量鉄道が、ドバイ国際空港からジュベール・アリ地区まで建設中である。一部を残し、橋脚はすべて立って、既に高架の桁も搭載されつつあった。その大部分がシェイク・サイードロードに平行して走っているため、日々の通勤時にその進捗状況を見ることが出来た。
この工事は2009年に終了する予定で、ブルジュ・アル・ドバイなどの建設もその頃を完成のターゲットにしているのかも知れない。
この鉄道は無人運転のようで、第2期工事はその後アブダビまでつなげるとのことになっているようである。
高架の桁は勿論ポストテンションで、緊張前のより線の束が端部から出ているのを見るのは懐かしい気がした。
残念ながら、そのシステムはフレシネーと書かれていて、私が居たATC時代のものではなかった。
陣容や歴史的な長さからいって、海外でのポストテンションはすべてがフレシネーのようだった。(ジンバブウェでの6橋のドネーションも、単純桁を除いて連続桁はすべてフレシネーの緊張方式であったことを思い出した)

このシェイク・サイードロードは唯一ドバイからジュベール・アリを経由してアブダビまで一直線に結ばれているが、ドバイ市内ではもう飽和状態を通り越し、朝夕の平均的通勤帯は殆ど動きが取れない渋滞が続く。
但し、ジュベール・アリ近郊から、アブダビ首長国に入るや、車の量も少なく、一車線の幅も広い悠々とした3車線の気持ちの良い高速道路であった。

内陸部には、前述の新しいゴルフ場や、スポーツランドが作られる予定の真ん中をエミレーツ・ロードが走っている。この道路は、隣国オマーンや、アル・アイン(後述)への分岐道路もあり、トラック類が多かった。
しかしここでの法律は厳格なのであろう、3車線ある一番右(右側通行)の車線しかトラックは通れないようになっているらしい。乗用車の我々が真ん中や追い抜き車線を比較的すいすい通れるのに、一番右の車線はトラックでずっと渋滞したままなのである。
どこかの国の雲助トラックのように、スラロームして、真ん中車線を走るものは殆ど見かけなかった。高速道路はかくあるべしと思ったものだ。

***

ドバイ駐在前半は、休みといっても、することもなく、主な時間つぶしは海岸での日光浴だ。幸いアパートからは、近いとは言えないが、何とか歩いてジュメーラ海岸に行くことが出来る。
半ズボンにぞうり、バスタオルを持っての暑い中の散歩だ。
サウジ同様暑い中を歩く変人はあまりいないけれど、周りの景色や様子を楽しみながらの散歩は、結構楽しいものだ。
例の馬鹿でかいUAE国旗が掲げられているジュメーラロードまでは比較的短時間でいける。

その途中に、ドバイ・ドックがある。その昔会社の修繕部の同僚がドバイに出張したことを思い出したが、ここに来たのであろう。ここは、昔修繕船を扱うだけだったようだ。
中東の産油を日本まで運ぶための航路で、ホルムズ海峡に一番近いところに位置しているのも船舶の修繕には有利であったからだろう。
今では、北欧向けの半没水リグを建造しているらしく、そのブロックが塀越しに見て取れた。
私の造船時代の後半は、このような海洋構造物を作っていたので、とても懐かしく、塀越しではあるが、それらの写真を撮った。
今思えば、おおっぴらに写真を撮ることは許されたのかどうか、その時はそんなことをつゆほども考えなかった。(ここには、我々の仕事の検査員をリクルートするためにはいることが出来た)

海岸への途中にある近代的スーク(専門店)でアディダスの海水パンツを買った。
ジュメーラ海岸でこれをはくことの抵抗は全くなかったが、いざ日本に帰ってみると、還暦親父が履くにはどうかな、と感じた?と思ってしまう。

何はともあれ汗を拭き拭き海岸に着くと、結構波が高い、ライフセーバー役であろうフィリピン人がホイッスルをいつも吹きながら、水につかっている連中が沖に出ようとするのを連れ戻していた。
瀬戸内海と違って、アラビア海(ペルシャンガルフ)はやはりでかい。
対岸にはイランがあるはずだが、見えるわけがなかった。
水に入ることもそこそこに、甲羅干しをして又同じ道をとことこ帰るのが週末の過ごし方だった。
ところが初日に余りにも無防備に背中を丸出しでうつぶせになっていたものだから、2-3日して背中がひりひりとむずがゆくなり、水ぶくれを起こして皮が完全にむけてしまった。
全く日本での日差しの強さに比べ、強烈であることを名実共に肌で感じた。

半日の甲羅干しで十分である。出かける前には朝にぎりめしの弁当を作って出る。例のスピニーズで米は手にはいるし、海苔も漬物、梅干しもある。卵焼きくらいなら私にも作れる。ご飯も普通の鍋で、結構旨く炊ける。その弁当を、コーラとかミネラルウォーターで食べるわけだが、これが結構おいしい。

ジュメーラビーチを少し先まで行くと、動物園がある。5ディルハム(150円)程度であったろうか、話の種にとは言ってみることにした。上野動物園はもとより、中国福建省で入った動物園に比べても規模は小さい。何だ、この程度かという物だったが、それでも子供連れの家族が結構入っていた。白いオリックスは珍しく、とても綺麗であったが、そこら中にいるらくだまで、動物園の檻に閉じこめられているのは笑ってしまった。

動物園を出て、まだ体力の余裕があったので来た道ではなく少し回り道をして帰ることにした。
建設中のブルジュ・アル・ドバイの方面に少し向かって歩き、左手に先端が三角形にとんがった、特徴的ツィンタワーのエミレーツタワー、を見ながら、住宅街を抜けて歩いた。
そこらは高級住宅街で、塀も高く、中身を垣間見ることは出来ないが、時折門が少し開いている邸宅の内部を見ると、高級BMWやメルセデス、レクサス(日本ではこれが高級車)、ポルシェなどがさりげなく2-3台置かれているところもあった。

ジュメーラという場所はドバイでも高級住宅街であって、開業医や、ヘアーサロンの看板がよく目に付いた。さてその住人はとまでは調べられないが、白人も多いのではないかと聞いた。
でもきっと、アラブの石油大富豪はもっと違うところに住んでいるのだろうと思った。

海岸での甲羅干しにも飽き、近くの探索にも疲れた頃、本社から来たKTaとNTaさんやSMiさんがゴルフをやるというので、加えてもらった。最初に出かけたのは、アラビアン・ランチェスというコースで、周りはこれから発展すべく計画されているドバイスポーツ・シティの一角にあった。
ここは、打ちっ放し状が広くゆったりとして、勿論日本のようにネットなど無い。
練習をして、コースに出たものの、フェアウェーが狭く、ラフと呼ばれるようなところはほとんど無くすぐ砂になってしまう。
まぁ、全体がフェアウェー・バンカーで、その中にフェアウェーがあるという感じのコースだった。
従って、フェアウェーを外すと、なかなか良いスコアーにならない。従って成績は悪い上に更に悪かった。
それではということで、エミレーツゴルフクラブの隣のモンゴメリーゴルフ場に行くことになった。ここは、アンジュレーションが大きいが、なかなか面白いコースである。モンゴメリーの練習場もネットなどはなく、遠くの建設中のビル群に打ち込むという感じの打ちっ放し状を持っていた。
練習場には9ホールのミニコースが併設されている。私はここにひたすら通った。打ちっ放しはどうも面白くないので最低限しかしなかった。ミニコースと、打ちっ放しと昼にビール(ヘネケン)一本飲んで3000円弱だった。何しろ打ちっ放しの玉に制限はなく、又時間にも制限はない。
ミニコースも回し放題で、グリーンもよく手入れされている。
着替え室には、練習場といえどもシャワーが無料タオルと共に着いている。冷房ががんがん効いているのも又ありがたい。私は、ジンバブウェでゴルフはもうしないだろうと売り払ってきたために、クラブを持参していなかったので、貸しクラブを借りてミニコースを回った。この貸しクラブも無料なのが良い。
大人一人が終日遊んでたった3000円で済む。日本に比べて天国であるが、いかんせん暑い。
早朝に来て遊ぶ人、又夕刻から来て遊ぶ人はいるが、私のように終日居るのはまれである。
炎天下に、ミニコースを一日に8回まわったという記録で、私は仲間中で有名になってしまった。

一人遊び以外で正式にコースをまわったのは、アラビアン・ランチェスを入れて6回だった。
スコアーは相変わらず良くない。一度だけハーフで50を切ったのがあったくらいだ。
言い訳ではないが、使ったのは貸しクラブである。でもまぁ、マイクラブであっても同じ結果かも知れない。(弱気男のゴルフはどこまで行っても良くはならない・・・のかなぁ?)

仕事を早めに切り上げて、フルコースをまわると、18番ホール頃にサンセットが見られる。
18番ホールは打ち下ろしの巨大な池越えになる。迎えるフェアウェーは、結構狭いコースハンディキャップ1のホールだ。しかし、このティグラウンドから沈み夕日に向かって打ち込むのは爽快である。

****

後先になるが、赴任早々の金曜日(イスラム件では金曜日が聖日で休みとなる)ラスールにアブダビへ連れて行ってもらった。彼も、休みはすることが無く、残業代が付くと言うことで、喜んで付いてきてくれた。
UAEの首都はアブダビだから一度は見ておこうとのつもりであったが、後で仕事を含め何回も来ることになろうとはその時は思わなかった。
KWIKがあるジュベール・アリをすぎで少し走ると、アスファルトの色が少し茶色味を帯びた綺麗な舗装道路に変わる。そこがドバイ首長国とアブダビ首長国の境目だ。
アブダビ首長国にはいると、急に車の量も減り、すいすいと走れる。道路脇には、コンクリート製のしゃれたフェンスが、周りの砂漠とを隔ててずっと続く。

高速道路の制限速度は、時速120kmだが、ドバイの市内では渋滞に次ぐ渋滞でそんなスピードでは走れないことが多い。アブダビは広い道路に車があまりいないのでついついスピードが出る。
別に不安感はないのだが、警察の検問はどうなのかとラスールに聞いてみると、彼は検問というかレーダーの位置を熟知しているので今まで捕まったことはないという。彼の元々の住居はアブダビで、まあアブダビ人と言っていいくらいアブダビのことは知っているらしい。
車も2500CC以上の排気量を有するので、楽々である。
アブダビへの道路サイドには、いくつもの綺麗なモスクが見える。これを見るだけでも、ここはイスラムの国であることが分かる。

ドバイから約100km車がアブダビしないに入る頃、とてつもなく大きなモスクが目に飛び込んできた。まだ建設中らしいが、ラスールによると、これは出来上がれば世界一になるという。
これもシェイク・サイード・グランド・モスクという。皆王様の名前が付いている。
これが出来上がったら、僕は一番にお祈りに来るのだと彼は言っていた。
果て、彼はインド人ヒンズー教ではなかったかと思ったが、まあいいかと聞いていた。

このモスクが、喜捨で建てられるのか、又は王族の懐から出すのか、いろんな話が聞くけれど、
いずれにせよ他を圧するというか、これぞ偉容だと思える巨大且つ薄いブルーの綺麗なモスクだった
経済のドバイ、政治のアブダビといわれるだけあってアブダビしないはドバイほどの活況は見られないものの、街並みは美しかった。
特にコルニッシェ・ロード(コルニッシェは海岸の意)は綺麗な道路だ。シェラトンホテルや、市庁舎なども整然と建ち並んでいる。コルニッシェ・ロードの外れには、七つ星ホテル(とにかくVIPしか泊まれない)という、とてつもないホテルがある。庭に並んでいる車は、ロールスロイスやメルセデス、高級BMW、等々である。中に、車体を全部銀で作った車があることを知り驚きの頂点だった。

コルニッシェ・ロードが七つ星ホテルにぶつかる道を海岸の先端に向かって進むと、そこには、新しくできたマリン・モールがある。
日本でも最近似たようなモールは出来てきているが、ここのモールは、午前中は殆どの店は閉まっている。開店を始める歩は日没前の5時くらいからぼちぼちである。
ラスールは旧友に会いたいからと、私をモールに残して迎えに来る時間を決め遊びにやらせた。

所在なく、モール近辺を散策する、ヨットハーバーがあるが海水浴場は見えなかった。
モールの中にはやけに子供用品が多いのに気がついた。奥の方にはなにやらドバイに似て、スケートでも出来る施設があるようであった。
どこにもあるスターバックスのショップに入って時間を潰した。元々何でもてに入る日本から来ているわけだから、特に欲しい物はなかった。(というか高級品は超高価で手が出ないのが実情)

やがて、ラスールは時間通り迎えに来て、帰る前にと、アブダビ市内の一番老舗モールに連れて行ってくれた。モール内には、観光客に混じって、現地の女性であろうアバヤ(黒い服)をまとった女性の団体が通り過ぎたりする。
黒い服の裾で、床を掃除するように歩き、目だけがきらりと光っているだけである。
サウジの時に教わったとおり、私は直視を避けた。もしも男性(親か、亭主)がいて因縁をつけられたら大変であるから・・・。

つかの間のアブダビ観光を終え、一路ドバイに向かって帰路を急いだ。

****

次の週はフジェイラに向かうことにした。ここもドバイからは100km足らずに位置している。
ドバイやアブダビの面するアラビア湾(ペルシャ湾)とは反対側のオマーン湾に面する街である。
ドバイ国際空港の横を通り、少し行くと、シャルジャの国際空港の横を通ることになる。
何故、こんなに近くに国際空港が2つもあるのかと思うくらいに近い。
その先には、右側に、広大な敷地の立派な建物が遠望できる。王族の別荘だろうということになった。広いばかりで、何もない敷地の奥の建物の内部はどんな風になっているのかと少し興味が湧いた。
そこからは一本道の国道が走る。アブダビへ行くほどの広さはないが、片側2車線の道路は快適に進めた。道の前方には、それほど高い山ではないが、木が一本も生えていない山並みが続いた。
途中アル・ダイドという町の当たりの道の両側に簡単な露天商が建ち並んで、日用雑貨や、敷物店や食事が出来るところがあった。
ここで、休憩をして、売っていた椰子の実を無造作に割ったジュースをストローで飲んだ。フィリピンの山奥でサービスしてくれたことを思い出して懐かしかったが、ジュースそのものは一寸生ぬるく、余りおいしい物ではなかった。
そこから、又進むこと暫くで、マサフィの分岐路を右にとり進む、程なくフジェイラの街並みに入っていった。フジェイラの街自身は、一寸した田舎町という風情だ。朝が早いこと、又金曜日とあって、ガソリンスタンド以外は余り開いている店もなかった。考えてみれば100km強、高速道路120km/hを出せば、いとも簡単に着いてしまうわけだ。人々の動きはまだ始まっていないのかも知れないし、安息日を楽しんでいるのかも知れない。

とりあえず、海岸部地の公園に車を止め、アラビア海(オマーン湾)を背景に写真を撮った。
遠くには船影が何隻か見える。北のペルシャ湾(アラビア湾)からホルムズ海峡を通り出てきて、南下してオマーンのマスカットに入るのか、はたまたアジア方面(ひょとして日本)へ向かうのか、船首は皆南の方を向いているように見えた。

ファーストフード店で、簡単な食事をして、そのまま帰るのは惜しいので、海岸線を北上し、飛び地である北のオマーン国境を目指すことにした。アラビア半島北端のオマーンと、南の主なオマーンと、そしてその中間に全くの飛び石状態のオマーンがある。フジェイラ首長国を走っているかと思うと、そこはシャルジャ首長国と飛び地であったりする。

もっとも首長国連邦だから、各首長国の間は検閲も何もない、日本で言う県境のようなものだが、ことオマーンの飛び地となると検閲があるのではないかなどと考えながらのドライブだった。

フジェイラの街を出て40kmほど走ると、途中小高い丘の上に、なにやら砦のような物が見える。(バディヤンと言う町らしい)再び車を止めて、登ろうとすると、ラスールは、自分はここで待っているという。特に珍しくもなく、登って汗をかくほど興味はないらしい。

仕方なしに私は一人で登ることにした。登り口には石と煉瓦と漆喰で造られたモスクがあった。1446年頃に造られたモスクだと説明の看板には書いてあった。
中に入れてもらうと、実に狭い。家族だけのお祈り場所かと思うほどだ。
それでもイマームが(お祈りの指導者)いて、愛想良く話をしてくれる。丸顔で人なつっこいが、
話の内容は、自分がイマームであることの自慢と、娘が外国に留学していてと、一家の自慢話が殆どだった。しかしながら、こんな場所で、英語を話すアラビア人に出会うとは思ってもいなかったので、多少感激して、日本から来たことを告げると、更にいっそう親密に部屋の中を説明してくれた。

そこから出て、砦の上まで歩いていくと、本丸と、少し離れた二の丸のような形になっていた。おそらくは、海から攻めてくる外敵を見張り撃退するために造られたものであろう。
今はその外郭だけで、中には何も残っては居なかった。
砦のある高台からは、街並みが一望できる上、周りはデーツプランテーションになっていて、緑が一杯のオアシスのような感じだった。

そこを出て、一路北上、オマーン国境近くのディッバを目指した。
国交までは行かず、ディッバを南下して帰路についた。帰りは、海岸から離れた内陸側の道をとって南下した。
淡々と走り行きに分岐したマサフィに帰り着き、そこからは来た道を一路ドバイに向かって帰ることになる。
フジェイラは人口が約15万人(UAEの3%)程度かと思われる小さな首長国である。
一部港湾施設があったり、セメント工場があったりするだけの寂しいところであった。

****

その次の週末は、滞在に慣れてきたこともあって、一寸遠出をしようということになった。
ラスールの考えでは朝ドバイを早めに出て、アル・アイン(これもオマーン近く)というリゾート地を訪れ、夕方アブダビがにぎわう頃にアブダビに到着し、それからドバイへ帰るという、三角形のドライブである。
アル・アインには、標高1163mというハフィート山があり、ここからはオマーンが見える(といっても砂漠だけだが)というものだ。
一も二もなく承知して、朝早くにアル・アインに向け出発した。
丁度一辺が120kmの正三角形を走ることになる。ドバイがその頂点で、アル・アインは東側の底辺の頂点(陸の中)で、アブダビは西の底辺の頂点(アラビア湾)になる関係だ。
ドバイを出ると、丁度南(裏側)からドバイのビル群を見ることになる。右手にらくだのレース場を見ながら、ドバイの街を離れていく。

片側3車線のハイウェイを軽快に走る。エミレーツ・ロードとの交差点、ハッタ、オマーンへの分岐点を過ぎたら、所々に分岐する道はあるものの、アル・アインまでは一直線だ。道路脇に無造作に植林された防砂林に守られて、高速道路は続いていく。
途中潜水艦のような建物が遠望できる。しかし殆どは砂漠(デューン)ばかりだ。
遠くでらくだが、何をはんでいるのだろうか、下を向いてむしゃむしゃ口を動かしているのが見える程度だ。

やがてある・アインの町に着いた。シェイク(首長)の顔を埋め込んだ、城型のモニュメントが迎えてくれる。市内はみんなロータリー式(RA=ランアバウト)になっているのは、イギリス式なのか。サウジでもそうであったが、RAの中心には必ずモニュメントがある。
市内にかかるところにあった、アラジンの魔法のランプのモニュメントはいかにも楽しい。

多くのモスクがあるのも、もう見慣れたものだが、一つ一つ違ったデザインになっているため、結構外観を見て楽しめる。市内のモスクは荘厳で立派だった。

最初に行ったのは、アイススケートリンクだ。灼熱の国でもアイススケートは出来るらしい。公園を入るのに少しばかりの入場料が要るものの、中はだだっ広く、スケートリンクの建物の外観は相当に痛んでいた。リンクにはいると、どうやらホッケー場のようである。
運悪く試合を見ることは出来なかったが、リンクを一回りしたら、外の暑いのを忘れてしまった。

近くの公園はとても立派で、お皿を三枚重ねたような大きな噴水が水を高々と噴き上げていた。
余り早かったのか、人は殆ど居なかった。記念撮影などして、他にすることもなく、暑いばかりの公園を出ると、丁度西欧人のバスツアーとおぼしき一団が入れ替わりに入っていった。

更に市中に入っていくと、家畜市場や、野菜市場などを一通り見て回ったが、安息日であるためか、差ほど人通りは多くなかった。観光客目当ての布で飾ったらくだや、馬車が道路を闊歩しているのを見ることが出来た。

UAEでも結構大きな部類の博物館は、安息日ということで休館していた。博物館は、砦のような外壁に囲まれていて、その上を衛兵のような男が歩いていた。
私は大声で、入れてもらえないだろうかと聞いてみたがだめだった。入口のドアを見ろと言っているようで、ドアの前に行くと、金曜日は、ちゃんと休館になっていた。

博物館の横を入っていくと、なにやら塀に囲まれたナツメヤシの林がある。昔のオアシスを近代化して、灌漑用の水路を造った現代版オアシスであった。
中に入ってみたが、灌漑用の水路も時期が来て水を流すのであろう、常時水があるというものでもなく、特に手入れをしているという風でもなかった。

観光ブックによると、ここアル・アイン近くの町にブライミがあるが、ブライミはオマーン領土である。しかし、ブライミにだけは検問もなく出入りすることが出来るということである。従って、オマーン入国となるとその先の検問所まで行かなければならない。

飛び地の多い首長国と、オマーンとは、国を異にしても、その昔は個々の部族(首長)の勢力争いで決まったもの、現在ある意味では緩やかなものである。

ブライミには寄らずに我々は一路ハフィート山に向かった。
ごつごつした、草木が一本もない山肌に囲まれた、ハフィート山への道は、途中から、登り2車線下り1車線となっていた。
所々に立て看板がある、アラビア語でよく分からないが、ラスール曰く、落書きをするなと言うことらしい。どこの国も同じ悩みを持っているのだと、少し情けない気がした。ハフィート山への道すがら殆ど落書きを見ることはなかったが、所々の岩陰にはやはりペンキでなにやら描かれていた。(警告版に書かれた罰金の額は結構多額であった)

頂上といわれるところには駐車場があり、鉄格子で囲まれてはいるが周りを展望できる。
日本では峠の茶店という感じのところはあるが、開店休業状態だ。
周りに何もない。草木一本無いので、風が強く、吹き飛ばされそうになる。
暫く車を止めて周りを見渡す。ラスーラが、検問はないけれどこの頂上はオマーンとUAEの国境だと教えてくれた。
眼下にオマーン国を見ることは出来たが、そこは単なる砂漠であり、UAEの砂漠と何ら変わりはなかった。人類は、こんなところにも国境を造るのだなぁと思う。
サテライトから地球を見て国境線は見えなかったと言うが、ここでもそんな感じが分かる気がした。
頂上の駐車場から更に少し上には、なにやら立派な建物があった。
これもきっと王族関係の物だろうと思われた。門扉がしっかりと一般の侵入を阻止していた。

登ってきた方を顧みると、くねくねと曲がる道路の先には、一部山が緑(というか、山肌が緑)のところがある。
そこが登り始めた登山口だという。周りは茶色一色なのに、なにやらそこだけが緑になっている。
降りていって分かったが、そこはUAEのリゾート地である。山肌には植樹?(草)してあり、ナツメヤシが植えられた草地では、黒いアバヤを着た一家がくつろいでいる。

人口の小川があり、子供達が遊んでいる。何事かと手をつけるとそれは温泉のように暖かい。
実際に温泉なのか、地下水を汲んで周りの温度で暑くなったのかは分からないが、綺麗な水で、我々は足を浸して遊んだ。
ここもいわゆる食堂というものはなく、ナツメヤシの木陰の道路脇に止めた車から降りたアバヤやトーブのアラビア人や、一部観光客が憩っているだけであった。
しかしながら、炎天下の砂漠と裸山にこれだけの緑を植生することがどれだけ大変で、又どれだけお金がかかっているのかを想像せずには居られなかった。

アブダビに夕方の5時頃着くのが具合が良い(夕方しか店は開かない)ということで、少し余裕を見てハフィート山の麓の公園を出発した。

アル・アインからアブダビまでは三角形の底辺を走る感じだが、周囲にはこれと言って変わった物もなく、ただひたすら走るだけであった。
アブダビももう2回目で、綺麗に掃除が行き届いた国王や王族の屋敷地帯を走り、いつもコルニッシュ通りを通って、マリンモールへ行く。
市内のアブダビモールよりも新しいので人はここに集まってくるようだ。

2-3時間も過ごしただろうか?又再びドバイに向かってひたすら帰ることになった。
ラスールは必ず、アブダビとドバイの境界のアブダビ側のガソリンスタンドで給油する。
どうやら、アブダビ側の方が品質がよいとのことらしい。
よくよく観察すると、確かに、アブダビ側の給油所は車が一杯なのにもかかわらず、一寸ドバイ側に入った給油所はがら空きの状態だった。
KWIKの見えるジュベール・アリを通過して、明日から又ここに来るのだと思いながら、ドバイ市内の渋滞の中へと入っていった。

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やっと来週には連れ合い(YY)が日本からドバイへやって来る。それまでにどこに連れて行けば良いのか、観光の下調べをしなければならない。まだ行っていないところは、ドバイやシャルジャの北方、アジマン、ウム・アル・カイン、ラス・アル・カイマのペルシャ湾沿いの小首長国である。ハッタという町もなにやら観光旅行地としては名前が出ているが、ここはパスすることにした。

途中の小首長国は特に何の変哲もない。余り整備されていない海岸がある程度だ。
北の果て、これも飛び地オマーンの国境近くの町シャムスへ一路向かった。
途中には、セメント工場らしきものがあるだけで、他は単なる田舎町だ。
そういえば、サウジでも、又あの小さな国バーレーンでもあった、ここは立ち入り禁止という軍事施設や石油井戸は見かけなかった。
面倒くさくなくて良かったが、UAEの地図を広げると、どうやら石油井戸は、アブダビ市内の更に南方で、サウジやカタールに近いところや陸地内部に多いようであった。

シャムスの先はオマーン国境で、又はげ山ばかりだ。
我々は、ラス・アル・カイマの小さな漁村の一角から、遠くホルムズ海峡を見るだけだった。

帰りに立ち寄った、博物館は、やはり、ここらで真珠が取れていたことを示していた。
土器類も展示してあり、日本の弥生式時代のものに似ていた。
ドバイ市内の博物館の方が展示物は多いが、ここ、ラス・アル・カイマの博物館を見る限り、UAEというところに石油が出なかったら、本当に単なる砂漠だけで、海岸沿いに人たちが僅かに魚でも捕って暮らしていただろうなという感想だ。

写真は後で追加することとし、次に進みます。(続く)




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